あゆみ・沿革

 1923(大正12)年9月午前11時58分、突如関東地方は激震に襲われ、東京・横浜・小田原・鎌倉等では、家の倒壊、山崩れ、津波が起こり、続いて火災が発生し、一昼夜で焦土と化す大惨事がありました。大震災の混乱の中で、本願寺はいちはやく人事相談所・救護所(現在のあそか病院)・託児所(8カ所)を開設し、また職業紹介所・授産所・隣保事業など多方面の社会事業を展開し、復興にめざましい活躍をしました。江東学園幼稚園は、8カ所で始めた託児所のうちの一つである亀沢町に開設された江東託児所が始まりです。
 1924(大正13)年3月震災後の区画整理により現在の敷地に移転となり、約3万8千人余の焼死者を出した陸軍被服廠跡に焼死した人々の追悼の場として、また残された者の心の拠り所として慈光院・幼稚園が設置されました。
 1928(昭和3)年9月1日、「築地本願寺震災記念説教所慈光院」として、間口7間2尺奥行10間の本堂が新築され、木曾檜を材とし震災遭難者の遺骨粉を塗り込み、漆蒔金粉を施した阿弥陀如来像(体内にも長さ30cm直径3cmの筒に遺骨が納めてある)をお迎えし、以来、念仏興隆の道場として、また地域の人々の精神的支柱としての歩みをはじめました。また同年、木造2階建の園舎が完成しました。
 1945(昭和20)年3月9日夜の東京大空襲では、本所地区は焼土と化し慈光院・幼稚園にも焼夷弾が落下しましたが、地元横網町会、本所消防団を始め地域の人々の消化活動で焼失を免れ、1947(昭和22)年4月には、早くも保育所として再会することができました。
 1953(昭和28)年4月幼稚園として認可され、この時から宗教的情操教育「浄土真宗の教えに基づいて、感謝の心、思いやりの心をもった明るく健やかな子どもを育む」保育理念を基盤とした幼稚園教育が始まりました。
 また、幼稚園保護者会の協力により、スクールバスをフランス大使館から購入し、戦後幼稚園で園児送迎バスを本園が初めて行うこととなりました。
 1958(昭和33)年、梵鐘(鐘楼)が建立されて以来、本所地域に荘重な音色が流れるようになり、また、この年より制服等が制定され現在に至っています。
 1965(昭和40)年2月に現在の鉄筋3階建ての園舎が建てられ、以後、数度の増改築が行われ、現在は冷暖房完備、防犯カメラ設置など園児をより安全に守り、過ごしやすいものとなりました。
 1973(昭和48)年、創立50周年の記念として園歌の制定があり、1975(昭和50)年より年長組を対象に慈光院本堂で一泊のお泊まり会が開始、集団での規律ある生活や自立心を養う良い機会となり、1978(昭和53)年からは園外において夏期合宿を行うこととなりました。
 以来、慈光院門信徒はもとより、地元町会、藤門会(OB会)など、多くの皆様のご協力があり、本堂改修・庫裏改修・園舎改修が行われました。
2011(平成23)年3月には東日本大震災よる影響を受けましたが、早々に園舎耐震工事及び保育室一部改修工事を行ない、地震対策に備えました。
 しかしながら、慈光院本堂・庫裏は創建85年を経過し、園舎も築50年を迎えることから、2013(平成25)年7月より慈光院・江東学園再建計画が始まり、慈光院においては新本堂の建築工事、幼稚園においては、学校法人化に向け、保育室一部改修・園庭整備工事が行われました。
 2016(平成28)年2月1日、東京都より学校法人の認可を受け、「学校法人築地龍谷学園 江東学園幼稚園」と法人名の名称変更となりました。
 同年4月、築地本願寺をモチーフにした慈光院新本堂(鉄筋コンクリート造り2階建)も完成となり、慈光院・江東学園幼稚園の新たな始まりとなりました。
 令和6年度現在、6クラス約140名が在園する墨田区有数の幼稚園となり、8,061名の仏の子どもが卒園しています。